映画『私のはなし 部落のはなし』

以前、ブログでこんなことを書いた。

被差別部落偽史

あからさまな肉体的差異が少ない日本の風土においては、差別の対象が選ばれる理由は恣意的だ。

学校において、社会において、いつ誰がいじめられる対象になるかわからない日本の「いじめ」の構造と同じく、被差別者は差別者によって恣意的に選ばれる。

言いかえれば「差別の起源」などない。被差別者に「なぜ?」を問うても答えは永遠に出ない。

差別者=マジョリティ=「普通の日本人」は、その時代その時代において「なんとなく違う奴」を差別の対象にする。被差別部落の起源がはっきりしないのはこれが理由だ。逆にいうと日本社会における差別のメカニズム(「なんとなく違う奴」を排除する)は中世からずっと一貫している。

昨年5月の公開以来、ずっと観たいと思っていた映画『私のはなし 部落のはなし』。

9月にシアターキノで6日間だけ上映されたのだが、見逃してしまった。

北海道には被差別部落がほとんど存在しないので他の都府県に比べて関心も薄いだろうし、上映時間が205分もあり、かつメジャー映画のような集客も見込めない内容だけに、ああ行けばよかったと後悔していたんだけど、札幌の自主上映グループ「キノマド」の企画「いまドキュ」いま観たい・いま観せたい・いま観るべきドキュメンタリーの上映会)で3月21日に上映会が開催された。

www.kinomado.com

会場は札幌市資料館。

buraku-hanashi.

かつて日本には穢多・非人などと呼ばれる賤民が存在した。1871年(明治4年)の「解放令」によって賤民身分が廃止されて以降、かれらが集団的に住んでいた地域は「部落」と呼ばれるようになり、差別構造は残存した。現在、法律や制度のうえで「部落」や「部落民」というものは存在しない。しかし、いまなお少なからぬ日本人が根強い差別意識を抱えている。なぜ、ありえないはずのものが、ありつづけるのか? この差別は、いかにしてはじまったのか? 本作は、その起源と変遷から近年の「鳥取ループ裁判」まで、堆積した差別の歴史と複雑に絡み合ったコンテクストを多彩なアプローチでときほぐし、見えづらい差別の構造を鮮やかに描きだす。
(『私のはなし 部落のはなし』公式サイトより)

上映開始前に、キノマドの田口さんとfuchiの小町谷さんから映画の紹介と、上映会の開催にあたってなぜこの作品を選んだかを語る熱意のこもったスピーチがあった。

おふたりとも「部落問題」が「被差別部落民の問題」ではなく「日本人全体の問題」であると認識されていること、そしてなによりいままで映画や映像に関わってきたプロの専門家がこの映画を「いま観るべき」だと考えていることが伝わってきて感銘を受けた。

そして本編。205分があっという間に過ぎた。

とてもやさしい、そして希望のある映画だった。

いまこの国で現実に生きている被差別部落民のリアルな声と姿を伝えるドキュメンタリーとして貴重な記録であることはもちろんだが、過去と現在の時系列をたくみに切り替えながら被差別部落の歴史を織り込む満若勇咲監督の構成力とストーリーテリングの妙にも舌を巻く。

とくに印象深いのは京都・崇仁で暮らす女性のエピソード。彼女の艱難辛苦の人生がそのまま戦後の部落史を体現しているようで、思わず目頭が熱くなった。

 

映画を観ながら思い出したこと。

おなじ部落に住む祖母の友達が、職場の同僚に住所を聞かれて部落外の隣町だと嘘をついたという話。それを話すときの祖母の憤慨と悲哀が混じった表情。

押し売りのオッサンがうちに来て、親父が断ったら捨てゼリフに「この同和乞食が!」と吐き捨てて去ったこと。

下北沢の10円ポーカー屋でバイトしてた頃、常連の内田さんがフォーカードが出たとき俺が部落民なのを知らずに「ヨツや! ヨツや!」とうれしそうに叫んでいたこと。内田さんは店では「内田」と名乗るが外では「金田」さんだった。

『ワッツイン・エス』のライター募集記事で増井修が「士農工商音楽ライター」と書いたこと。これは編集部まで取材に行って『クイック・ジャパン』に記事を書いた。

 

この映画に関わったすべての皆様(鳥取ループ以外)に心から感謝します。

 

※映画『私のはなし 部落のはなし』 満若勇咲✕角岡伸彦 対談

www.jinken.ne.jp角岡伸彦「映画『私のはなし 部落のはなし』 公開2ヵ月後のはなし」

note.com※キノマドの紹介記事

kai-hokkaido.com