追悼、『アニメック』編集長・小牧雅伸

アニメック』編集長、小牧雅伸さんが亡くなったとのこと。
小学5年生のときに出会った『アニメック』は、私が多感な時期にいちばん大きな影響を受けた雑誌だった。
それまで親に毎月買ってもらっていた「小学5年生」をやめて、自分の小遣いで「アニメック」を買うことに決めたのが1981年の6月。
小学生が父親に「これからはこの雑誌買うて」と頼むのにはなかなか勇気のいる表紙であった。みよしプラザ(広島県三次市)で買ってもらいました。

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翌年、小学校を卒業するときに描く自画像の下に将来なりたい職業を記入する欄があり、「ライター」と書いた。まさか10数年後に実現するとは思わなかった。

私が90年代半ばから編集者/ライターとして働いていた『remix』は「STREET AND CLUB SOUND MAGAZINE」を標榜しており、「サブカルチャー」が自分の属性のひとつであることは間違いない。
と同時に私は、11歳で『機動戦士ガンダム』と『アニメック』に出会い「アニメ新世紀宣言」に打ち震えた「おたく」でもあった。

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マニアックな論考が多くしばしば「哲学書」と揶揄され、アマチュア上がりの編集部とファンダム・読者の距離が近い『アニメック』は「大規模同人誌」と自称することもあった。

読者欄「あにめえる」「みにめえる」での読者間交流が盛んだった同誌は、アニメファンたちにとっての隔月刊のSNSのような、いまでいうメタバースみたいな存在だった。
2ヶ月に1度の発売日がどれだけ楽しみだったことか。(しかもときどき遅れた😅)

 

1999年にガンダム・トリビュート・マガジン『G20』に参加したとき、「誰かインタビューしたい人はいませんか?」と言われて迷わず「小牧さん」と答えたのを覚えている。
取材の前に、お手紙を、書きました。
いま読み返すとほとんどラブレターだな。

'80年頃のアニメックの記事か投稿で、「『ウルトラマン」は今では大半の人に知られているけど、あれだけ多くのことが熱く語られた作品が人々の会話にのぼるとき、「ああ、“シュワッチ”ね」という一言で片付けられてしまう。僕たちの「ガンダム』が、10年後に「ああ、モビルスーツね」ですまされてしまうような情況にはしたくない」というような内容があったのを今でも覚えています。
で、今はまさにそういう情況になってしまっているわけです。
ここで必要なのは、「ガンダムが氾濫しているなかに、あえて今一度『ガンダム」を導入すること」だと思うのです。
人はいつかわかりあえるし、愛しあうこともできるはず。その可能性こそが『ガンダム」の中心であり、それこそが、エゴイズムとフェティシズムが飛びかう今の日本に最も欠けているものだと思うのです。
ニュータイプとは人の可能性」という言葉は、小学生の自分に未来に対する限りない希望を与えてくれたし、その気持ちは今でも変わっていません。

アスキームック『ジー・ツー・オー ガンダムトリビュートマガジン』第4号(1999年4月20日発行)

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子供の頃から憧れだった『アニメック』編集部でお会いしたモノホン編集長の小牧さんは、エネルギッシュで博識でユーモアたっぷりの人物で、話していると、初めてお会いしたのに長年の友人のような気持ちになった。
アニメック』を読んで育った私が大人になって編集・ライターの仕事をしていることも、たいそう喜んでくださった。

以来、自分は小牧雅伸の弟子だと勝手に思っている。

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うず高く積まれたバックナンバーの1冊を手に取ると表紙がポロリ。
「あ……」という気まずい一瞬と、小牧さんの「知ってるでしょ」と言いたげな苦笑い。
初期のアニメックは表紙がはがれやすく、読者欄でもよくネタにされていた。

f:id:stonedlove:20220130132944p:plainあっという間に120分テープが一杯になり、万感の思いを胸にラポートピアビルを後にしたのでした。
あれから20年以上経っても忘れられない、宝物のような思い出です。

小牧雅伸さんのご冥福をお祈りします。