『ガンダム00』には情緒がない。まるでケータイ小説のようだ。

ガンダム00』に関しては、前回の記事で、
自分としては暫定的な結論が出たので、しばらく静観しようと思っていたんだが、
今回(11話「ダブルオーの声」)が、かなり驚愕の内容だったのと、
前回の記事にコメントをいただいたので、現時点での見解を。


オーライザー」というGディフェンサーみたいな支援メカが出てきまして、
これがダブルオーガンダムと合体すると、
ピカーと光の輪が出てきて精神世界への扉が開き、周囲の人間が全裸になるのな。
技術者もびっくり。


あちゃー。なんだこりゃ?
ニュータイプ
基本的に『00』の悪口は言いたくないのだが、
まあVIPPERのみなさんが揶揄したくなる気持ちもわからんでもない。


ひとことでいうと「信仰なき宗教」。スピリチュアリズムですね。
これ見ると逆に、富野ガンダムニュータイプ思想がいかに仏教臭いかよくわかる。


これさあ、作り手は大真面目に善意でもって「いい作品を作ろう」と思ってやってると思うんだよ。
なのに、こんなふうにしか作れない、こんなふうにしか人間とか魂を描けないっていうのは、
やっぱり時代の病なんだろうなあ。
ガンダム00=世界の歪み」説を、ますます確信せざるを得ない。


あと『00』を見ていて思うのは、悪役に影がない。
アリー・アル・サーシェスとか、ネーナ・トリニティとか、ルイス・ハレヴィとか、
悪役とか敵役の人たちって、裏側に悲しみが見えてこない。
ただ「強くて悪い人」とか「親を殺された人」みたいなシールが
顔にペタッと貼ってあるようにしか見えないのね。


もうひとつ、これは自分にとって衝撃だったんだけど、マリナ王女と子供たちとの会話で、
子供のセリフが、たんに話の導入としてしか使われていないこと。
作り手にとって、劇中の子供たちの役割は「目的」ではなく「手段」なのだなあ。
人格をもった人間としてではなく、「セリフを言う小道具」「風景」として扱われている。


情緒がない。まるでケータイ小説のようだ。
ガンダム00』は、ケータイ小説を読むように見るのが正しい作法なんだろうなあ。


※参考テキスト
ケータイ小説に見る関係性のない物語 共感の脊髄反射化-風味絶佳な日々―読書日記
「リアル系」 - Blog: Sato Site on the Web Side