ハードコア・ブディズム! 清水俊史『ブッダという男』

「敬虔なる仏教徒」とまではいえないが、私は仏教から多大な影響を受けて育ち、いままでずっと興味を持って生きてきた。
広島県安芸高田市にある実家は安芸門徒で、幼少時から浄土真宗の和讃に親しんでいた。
青年期から現在まで、親鸞、浅原才市、武田泰淳鈴木大拙中村元ユングやヘッセの仏教関連の書物に触れ、はては真言立川流にも手を伸ばした。
3Dプリンタで仏像も作ったぞい。

こんな仏教書を読みたかった! という本が出た。

www.chikumashobo.co.jp清水俊史は本書でブッダにまつわる虚飾を削ぎ、物語を剥ぎ取る。
ハードコアである。

ブッダは戦争を否定したか? 
ブッダは輪廻を否定したか? 
ブッダ階級差別を否定したか? 
ブッダは男女差別を否定したか? 

にべもない。けんもほろろである。
まーしかしよく考えればそりゃそうよって話よね。
2500年前に生きたブッダが、近現代の民主主義や平等主義の徒であるはずがない。
あわせていえば、わが国の仏教が軍国主義に加担し被差別部落民に差別戒名を付けたことも、目を背けず直視しなきゃいけない。

ただそこで「失望しました。もうブッダさんのファン辞めます」とはならないよね。

第二部『ブッダを疑う』第5章「ブッダ階級差別を否定したのか」で、清水はビームラーオ・アンベードカルと新仏教運動に触れている。
最下層カーストである不可触民の身分に生まれたアンベードカルは、バラモン教から継続するヒンドゥー教階級差別と闘うための原動力として仏教を選んだ。
それは2500年前のブッダの教えとは異なっていたであろうが、たしかに人々を動かし変えた。

アンベードカルは、50万人の不可触民らとともに仏教に改宗し、これが現在インドに800万人以上いると言われる新仏教運動の母体となっている。

アンベードカルの闘いから私はネイション・オブ・イスラムを連想した。
米国の差別的なキリスト教社会に対抗するためにイスラム教を選んだ黒人たちが決起したブラック・ムスリム・ムーヴメントは、イスラム教の発祥地であるアラブの人々には予想もつかなかったであろう。
ジャマイカにおいては被差別階級の黒人たちがハイレ・セラシエをかつぎあげて……(このへんの事情はかなり複雑怪奇。ラスタファリアニズムについてはまたあらためてなんか書く)

アンベードカルやネイション・オブ・イスラムと性格は異なるが、以下は連想したままにメモっておく。
ウガンダを中心にワールドワイドに活動する汎アフリカ・ダブ・アナキスト集団、インディジェナスレジスタンスは、ブルキナファソのトマ・サンカラに共鳴し「Sankara Future Dub Resurgence」を名乗っている。
メキシコのチアパスで武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)はメキシコ革命における農民解放運動の指導者エミリアーノ・サパタの名を冠している。

ついでに連想したので書いておくと、わが聖典であり被差別部落民の精神的支柱である『水平社宣言』には「男らしき産業的殉教者であつたのだ」という男権主義的な一節がある。
そこはアップデートしようよ。100年前だからね。という気持ちがある。

本題に戻ると、2500年前のインドにおいて、ブッダは近現代人のようなものの考え方をしていなかった。当然のことだ。
第三部『ブッダの先駆性』、ここが本書の最大の読みどころである! と書きたいところだが、まだ十分には理解しきれていない。
いわば2500年前にタイムスリップして当時のバラモン教と仏教と沙門集団(六師外道)の文献からブッダの先駆性を腑分けしていく大変な労作であり難行である。時代も国も違うのでさまざまな固有名詞や抽象的な概念がバシバシ飛び交うかなりの難関だ。繰り返し読んで少しでも理解に近づきたい。

読んでいるうちに「ブッダその可能性の中心」というフレーズが浮かんだ。あ、これは柄谷行人マルクスその可能性の中心』からの連想だな。
とりとめがなくなってしまったが、ひとまずこのへんで。